昭和54年9月21日 朝の御理解
御理解第54節 「徳のない間は心配する神徳を受ければ心配はない」 神徳を受ければ心配はない。私は心配と言うものは一生続くものだと思うです。
お徳を受けて段々、まあ百のものには動じない。心配せんですむ。次に百五十のことが起こってくるとやっぱ心配する。けれどもさの心配と言うのは、その心配な事によって一信心させてもらう、一修行させてもらうね。そして受け物を作れば心配はない。
そう言うふうにして神徳と言うのは限りなく受けていくもんだと思うです。ですから信心の無い人が心配をしておるような事には心配はない。なら信心しておってもね。段々心配の内容が高度なものと言うか大きな事になってくるとやっぱ心配だけれども。その時はすでに、ならこれによって一徳を受けよう。これによって受け物を作ればと言う。まあ絶対信が生まれてまいりますから、受け物を作るおかげを頂く。成程、受け物を作っていけばおかげが受けられると言う確信。ね意味が分かるでしょうか。
私は心配と言うものは一生つきまとうものだね。それこそ神様が心配をなさる様な御心配と言うのがあると思うですね。高度な心配と言う事になってまいりますと。けれどもそこに心配があってもです。動じないですむね。ここでもう一段信心を高めていけば、もう一段大きな受け物を作ればおかげになると確信していくわけです。 ですからやはり一生修行と言うのは、そう言う事もあろうかと思います。子供が心配する事を大人が心配しないようなもんですね。成長していけば、信心が成長して行けば、だから心配はない、あっても確信がある。そしてその受け物を作る事がまたは楽しみにもなれば、有り難いと言う事にもなるのですね。ですから同じような事で、いつも心配しておると言うような心配では、それはいかに自分の信心が成長していないかと言う事が分かりますよね。
昨日、佐賀の神崎と言うところから初めてお参りをして来た方がありました。子供さんが小学校三年生になるのが、医者の手術の失敗で尿が出る神経を切ってしまってるから、おしめをはめて学校にでも行かなんならんと言うようなこと。親としてもう本当にそれにしのびない、かわいそうだと思う。
そこで合楽の話を聞いてお願いに参って見えたんです。お届けさして頂きましたら、Z『丁度あのボ-トに乗ってるんですね。そいでそのオ-ルを持って。あの本当はこうやって両方で漕ぎますわけですけども、漕いでおると言うのか水遊びしておると言うのか。オ-ルでこうまあ水面を撫でとるような程度のとこ。言うならばボ-トを漕ぐ、言うならば技と言うか。技術と言うかね。漕ぎえないでおられる。そしてそのボ-トが水かどんどんと入っておるところを頂いた』 だから私はこれは親、夫婦の事だと私は思いました。これは夫婦の中が円満にいっていないと思いました。それで家内は家内で、水が入ってくるなら、水が入ってくるで水でも出せばよいのに自分は例えば本当に漕ぎ習うたらいいのに、漕ぎ習おうとはせん。水をくろうとはしない。そこに夫婦の生活も言うならば具合良う行ってないね。そして二人ながら子供の事はやっぱ一生懸命心配をしておる。子供の病気は親の病気と言われるくらいだから、親が改まって仲むつまじゅう行くようならおかげを頂いて。そして夫婦が願えばおかげになる。 まあ、そう言うような意味な事を申しましたら、もう実はと言うて、それこそあの男涙をこぼしながらの、その後の事をお届けされましたんです。実は私は養子でごさいます。言うならばその為に家内が言う事を聞きませんと。まあ、聞かんのか聞かせきらんのかね。だから言う事を聞かんと言うよりか、あんたが聞かせきんなさらんとぢゃろ。あんたがオ-ルの使い方もようと出来とんなさらんとぢゃろ。家内は家内で水が入ってきよるけれども、その水をくろうともしない。まあそこんところをね。 だから家内が言う事を聞かんと言うよりもね。聞かせきらん自分であると言う事を分かって。そこに信心の言うなら教え手立てにして、言うならば主人は主人、男は男としての働きが出来るようなおかげを受けられたらね。私は娘さんの事はお願いもしますけれどもね。そう言う生き方をこれから神崎からといやあまあ、自動車で三、四十分くらいな所ですから、まあ一里たらずの所を歩いて参ってくるの同じ事、自動車で来るから。 一つ本気で娘さんの為に、あなたが言うなら家内が言う事聞かんのぢゃない。聞かせきらん自分と言う事を思うて少し信心の上に勉強なさったらどうでしょうかと。非常に関心を持たれたふうでいろいろと御理解を頂いたり、教えを他の先生からも聞いて帰られました。これなんかは神様がもうまさしくおかげの受け物を作れとこう言うておられるのです。
だからおかげの受け物を作ると言う事が、そのまま私は力だ徳だと思うのです。ただ、おかげの受け物を作らずに、ただお願いをした。おかげを頂いたと言うような信心であったら一生たっても同じ小さい事にくよくよしたり、心配をしたりする事から一歩も出る事は出来ないと思うんです。ただいよいよの時には神様にお願いをすると言う、いうなら程度の頂き方、神様では折角のね。心配すれば…神徳を受ければ心配はないと仰せられるような神徳を受けていく信心。それはおかげの受け物を作ると言う事。
だから例えばどう言うような、なら段々信心が成長してまいりましてです。百の心配には心配せんでよいけれども、二百の事柄になってくると心配になる。けれどもそん時には確信が生まれておる。自分がひと頑張りしさえすれば、自分が間違っている所を改めさえすれば、自分の受け物が大きくなりさえすれば、おかげは頂けると言う確信があるから。心配と言うても心配の内容が違う。絶対おかげになると言う事を確信しての心配なのである。
ですからそれが出来た時には見事にそれを受け止める事が出来る。それをおかげを受け止められた時には、もうすでに百の徳ではなくて、もう二百の徳を受けておると言う事になるのですね。 ですから言うならば、なら子供の事を通して一生懸命にお参りしておかげを頂いたと言うだけではなくて。子供の事を通して一生懸命、信心さして頂いて御理解を頂いた夫婦の上の事のおかげを頂く事に。家内が言う事を聞かんのぢゃない。聞かせきらん自分であると言う事を分からしてもろうてね。聞かせうるだけの力を私が頂く事に精進をする。
もう子供でもなからなければ家内でもない。あなた自身がおかげを受ける受け物を作る事だと言う時には、もうすでに。それをおかげを受けた時にはですね。受け物も出来とるだろう。家内も言う事を聞くようになるだろう、子供も言う事を聞くようになるだろう。 それから二人が、夫婦の者が勢いを揃えて信心させて頂くようになれば、もういよいよね。おかげになってくる事だろうと言うふうに思うんです。
神徳を受ければ心配はないぞ、完璧な御神徳を受ければそりゃまあ心配はないでしょうけども。私共の神徳もですね。言うなら力もです。段々百斤もてる力、二百斤持てる力ね。それを限りなく私共が大きなもにまたは間違いのない、言うなら水ももらさんおかげの受け物をね。作って行くと言う事に精進して行くね。
ですから心配があるからこそ信心が進んでもいきゃね。絶対のお徳も頂いて行くと言う事が出来ると言う事になります。と言うてもただ心配をしてウロウロすると言う事ではありませんよね。どう言う問題があってもです。自分の受け物を作ればおかげになると言う確信を持っての心配ですから。例えば苦労ですから、その苦労から脱け出ろうとせずに。その苦労が受けられる力を頂かしてもらう、と言う事でございますね。
神徳のない間は心配をする。神徳を受ければ心配はないね。いよいよそう言うね、確信のもてれるおかげの受け物作りに精進させて頂くと言う事が、言わば信心修行であると言う事になります。
昨日は丁度四時の研修を終わっておるところへ、有田ですかね。源右衛門が見えました。初めて試作と言うか、初めてこう言う思いつきをして造らせて頂いた。立派な箱に入りました茶器です。それも玉露呑みです。それがふつう玉露呑みと言うのは茶碗が五客分と足ろうておるわけですけども、この玉露呑みは大きな玉露を入れる、それこそ実に見事な急須です。それにお湯呑みが一つしかついてないのです。これはお茶呑みの精神、お茶を頂く人達のたしなまれる人達の精神と言うものは、皆にぢゃなくて自分が一人楽しむと言う観点からこれを造ってみたんですが、どうでしょうかと言うてまあ見えられました。
開けて見てもいいですかと言うて、開けて見たら見事な茶碗でした。それからあのう、私はまだ四時の御祈念がありますから、先に風呂に入ってもらって。私が御祈念が終わって風呂に入らせてもろうって。それからあのう夕食を一緒にさして頂いたんですけども。そこに、その出てくる話と言うものが源右衛門が思うておったり、今言ってきておった御理解がぶうっと、御理解ぢゃなくて話の中に出て来たんです。
それがね余りにも次々と、例えば先だってからあのアメリカのニュ-ヨ-クに旅行されました。それをお届けなさった朝、私はZ『源右衛門がお風呂に入っておる所を頂きました』そしたら電話がかかって来た。ニュ-ヨ-ク行きだ。ははあ極楽行かなと思いよったらニュ-ヨ-ク。お風呂ですから入浴(ニュ-ヨ-ク)ですよねと言うそれを聞きました。
そして今日また入浴のおかげを頂いてと言う話から、そのどうでもここは海外布教と言う事ですから、丁度あの正教さんが相手しとりましたから。竹内先生、あなたはニュ-ヨ-クの方へ布教に出られたらどうですかと。あちらは日本人も六万からおりますし、今ならまだ私の知った人がいくらもおりますからと言ったような話が出ました。
それから私が丁度、源右衛門が見えとる所へ大分からと言うて、ある大きな事業をしとられる方が、あの専売特許の枕を作ると、その枕の名称をどう言う名前をつけたらよいだろうか言うような電話がかかっておりました。ですから何ですかね。あのうよもぎと、それからそばの殻ですか。それで何か作った枕だそうです。それで私がよもぎ枕とされたらどうですかと。 「よ」は世界の世、それから「も」は茂、「き」は喜ぶね。世の中が言うならば茂って行く喜びと言う事になります。枕と言うのは大体は真の苦楽とこう言うけれども、まあそれはいいでしょうけれどもと言うそのお話をしましたら実は先生、私がその枕を考案しとる、アイスノンを中に入れて、源右衛門独特の図柄で造っとりますから、それを是非お供えしたいと言う話がでました。
そう言うような話がねずっと最後まで続いたんです。まだ他にもいろいろありました。私が研修の時に、あのう皆の研修を聞いて後にです。皆の発表が、それぞれに素晴らしいかった。どれをトバンに書くのは、その中でいいのを選んで毎日掲示するんですけども、もう今日のはどれを掲示してよいぢゃわからんくらい、どれもようでけとったと言うよう話からです。
あの古賀政男と言う人がありましたね。その古賀政男と言う人が素人ののど自慢か何かの審査をやっておる時なんかは、よかったと言うでしょうが。みんな悪かつはいっちょんなか、はあよかったよ。そして、ここん所はちょっと注意したらいいね、と言ったような表現でした。
だから私があの研修を聞いてから、皆のをよかったよかったとまるっきり古賀政男のごたるねと言う話をしておりましたらね。あの古賀政男と言う人とは、もう大変な懇意な方だそうですね。源右衛門と言う人は。そこからでした。兎に角合楽では日本、日本一、何でも日本一がお好きですから、今度東京へまいりましたら、山本富士子夫婦ば、ここにどうでもこうでもお導きすると言う話が出ました。これは日本一の美女と言うようなところから、私が言う日本一とあったと言う意味なんですね。 そして東京行ちは、私は今度十月に行きますよと言うたら、そしたら僕も是非行きますと言うような事になって、それから話がまた、その何とはなしにです。何かこう神様が置いたものを取るようにですね。今度の御建築の襖の引手とか、それから便所に使うタイルのあれは全部自分が手画きで、画かしてもらいたいからと言うような話にまで、まあ進んでまいりましたがですね。
そのお徳を受けると言う事の中にはね。ただ心配はないと言うような事だけではなくて、もういつも一日中が言うならばリズムに乗った生き方。いやあ神様は間違いないなあ。神様は間違いないなあと言うようなものを感じながらの事でございますから。よしそこになら自分では持ち得ない心配がそこに起こってもですね。
受け物を作ればと言う確信があります。自分がもう一段信心を進めればと言う確信があります。そしてそこに絶対おかげが受けられると言う事になります。いかにも厳しいようですけれども、そこには直ぐにリズムが生まれてまいります。そのの難しい事にもリズムに乗っての信心ですから、信心はやっぱり有り難いものだ。楽しいものだ。愉快なものだと言う事になるのです。 そう言う有り難い勿体ないとか愉快な、言うならば心の状態を続けながら御神徳を受けて行く修行をさしてもらわなならん。神徳、信心、御神徳を受ける。そりゃもう大変な言うならば人間の技では出来ないような修行をしなければならない、と言うような事ではありません。
そこから生まれて来るリズムに乗っての信心生活。そこにより一段と高い御神徳を目指して、おかげを頂いて行こうと言う事であります。神徳を受ければ心配はないとありますけれども、私は心配は一生続くと思う。しかも言うならば神様が御心配になるような心配が出来るような、言うならば心配でもさせて頂けれるような、おかげを頂きたいですね。「どうぞ」